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本島という島について

本島

2024年7月時点で人口約250人。

本島があるのは、瀬戸内海中央に位置する「塩飽諸島(しわくしょとう)」。

本州と四国の狭い海峡に多くの島が点在し、

古代より製塩が行われ「塩焼く」から起こったという説と、

潮が複雑に流れ「潮が湧く」ように見えることから起こったという二説の名前の由来がある28の島の総称で、

本島はその塩飽諸島の中心となる島です。

 

 

島の主な産業は、タコやチヌ(黒鯛)といった漁業です。

特産品として知られるこれらの海産物は瀬戸内海の恵みそのもの。

しかし、この小さな島には豊かな自然だけでなく深い歴史が息づいています。

 

本島の歴史

 

卓越した操船技術

瀬戸内海は潮の流れが複雑で、

それに鍛えられた塩飽諸島の島民は、昔から操船技術に優れていました。

本島でも、かつては漁業よりも船を使った貨物や乗客を運ぶ廻船業(かいせんぎょう)が盛んに行われていたのです。

 

塩飽水軍

「塩飽衆」と呼ばれていた彼らは、戦国時代には「塩飽水軍」(しわくすいぐん)として活躍していました。

実は、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら名だたる大名たちがその技術力を頼った水軍こそ彼ら塩飽水軍なのです。

 

水軍といえば愛媛・広島を本拠地とした村上水軍が有名ですが、

村上水軍は14世紀中頃から戦国時代にかけて活躍し、武力を得意とした一方、

塩飽水軍は16 世紀から江戸時代にかけて、廻船業を中心に活躍した集団。

両者はそれぞれ異なる地域と役割で日本の海賊史において重要な存在でした。

 

人名の島

その中でも特に豊臣秀吉は、全国統一の戦いで塩飽水軍の⾼い操船・造船技術をもつ塩飽の船⽅を利⽤し、

その功績を称え「人名(にんみょう)」という制度として島独自の自治を認めました。

これは全国的にも珍しい船方たちによる自治制度です。

650⼈の船⽅に1250⽯の領知を認め、全国的にも例のない船⽅達による⾃治が本島で認められていたのです。

 

塩飽の水夫たち

江⼾時代に⼊りほとんどの⽔軍が消えていく中で、

徳川家康からも朱印状を賜り、塩飽⽔軍は明治維新まで存続。

また、御⽤船⽅として幕府の⼤坂・江⼾への⽶の運送の優先権を与えられ、

江⼾時代前期には塩飽は⼤いに繁栄しました。

 

幕末になると開国した⽇本は海軍の整備が急がれ、軍艦の導⼊が相次ぎ、その操船には塩飽⽔夫達があたりました。

彼らは幕末から明治にかけて、近代⽇本海軍の発展に多⼤なる貢献をしてきたのです。

 

塩飽大工衆

しかし、江戸時代中期以降、廻船業が衰えると、

多くの水夫(船乗り)が船大工や家大工、宮大工へと転じました。

社寺の多かった塩飽では、宮⼤⼯と船⼤⼯、両⽅の技術が受け継がれたことで、

⾼度な建築技術を持つ職⼈が育ちました。

「塩飽⼤⼯」と呼ばれる⼤⼯集団は、

善通寺五重塔、備中国分寺五重塔、⾦⼑⽐羅宮など、数々の名⽴たる社寺の建築を⼿がけました。

 

 

⽔軍から幕府御⽤船⽅、そして⼤⼯へと発展し、塩飽⼤⼯の⼿による建築は、

今もなお⾹川や岡⼭を中⼼に100カ所以上残されています。

その名残は、現在も島のあちこちに息づいています。

 

宿泊施設「Villa Kasashima en」のある笠島集落は、歴史を感じる「笠島まち並保存地区」であり、

かつて名を馳せた塩飽大工の質の高い技術を見ることができ、今も島民の方々により大切に保存されています。

 

 

本島は、ただ静かなだけの島ではありません。

この島に刻まれた豊かな歴史と文化から本島ならではの景色を感じることができます。

 

ぜひ、その目で本島の歴史と文化に触れ、感じていただければ幸いです。